2012年1月19日

ゲーセンで出会った不思議な子の話 について

昨日、2chまとめ系サイトを見たら目に入った「ゲーセンで出会った不思議な子の話」。帰宅途中にiPhoneでざっと読みました。

読んだ段階で、まあ、そういうこともあるのかな〜と思ったんですが、帰ってからTwitterを見ると「泣けた」というコメントがたくさんあって、正直驚きました。

 

 

 

「え〜、だって、これってセカチュウみたいな話でしょ?」というのが僕の正直な感想です。

(Facebookにはゲーセン無くならないで!というメッセージだという説がありましたが、それはさておきます)

 

別にね、これで泣けたという感想は、率直で悪くないと思います。つまらないと思ったら最後まで僕も読まなかっただろうし。でもこれで泣くのか〜とも思いました。もちろん、人によって想いを重ねるポイントも違うでしょう。仮に書かれたことが事実であると仮定して、書いたご本人に対しては異論を挟むつもりもありません(もし本当につらいことだとしたら書くことで昇華できることもあるでしょうし)。

 

ただ、人の死が悲しいのは当然のことで、それと隣り合わせの中で生きていくことに、僕は興味がある。

 

ちょっと前に「小林賢太郎はストーリーテラーとしては甘い部分がある」とこのブログで書いてしまったけれど、小林賢太郎は誰かが死ぬ話を書かないというルールを自分に課しています。僕は、彼がどうしてそうしているのか、なんとなくだけど分かるし、だからこそ彼の作品を見に舞台へ足繁く通っている部分もあるわけです。

 

人の死は悲しく、泣いてしまうものです。

でも人生はそんな単純なものじゃない。

 

両親の死、妻の両親の死といった個人的なこと。昨年も多くの方が不意に亡くなられたし、震災もありました。

それでも生き残った人間がサバイブしていくことに、大きな価値がある。

 

前にもブログで書いているけれど、劇団☆新感線の舞台は、劇中でたくさん人が死にます。でも必ず、その死にどんな意味があるのか、生き残る側には何があるのか、そこまで踏み込んでいるからこそ、彼らの芝居に価値がある。そこを描くのが新感線で、そこに踏み込まないで別のものを描くのが小林賢太郎だ、と言ってもいいのかもしれない。

 

……とまあ、つらつらと書いてしまいましたが、なんとなく「これって泣けるよね。泣けないなんてひどくない?」的な空気に違和感を覚えたので、書き記しておきます。

 

最後に、そんなモヤモヤの中読んだヲノサトルさんのブログが最高にグッと来たので、リンクしておきます。

 

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コメント[1]

追記
先週末に、妻の叔父さんが亡くなりました。葬儀が終わってから連絡があってそのことを知りました。そういうことがあったことも、この手の「泣けた」話の「バブル」にイライラが募った理由かもしれない。

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