2009年9月11日

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書・2007年)を読了しました。

本書は大塚英志『キャラクター小説の作り方』 を下敷きにしています。大塚は、大きな物語崩壊後、それを切る取る自然主義文学はもはや成立しにくくなり、キャラクターが一人歩きする「キャラクター小説」に活路を見いだそうとする。しかし、大塚はそのキャラクターそのもので人間性をどこまで描けるかという大きな課題を提示しています。いわく、ゲーム的キャラクター文学では、人の生死の問題を描ききれていないのでは?と。

東はそこに批判を加えています。自然主義文学は成立しないのに、キャラクターに現実と同じ属性を持たせることが矛盾なんじゃないかと。

そこで東が考えるのは、ライトノベルのキャラクターはあくまでキャラクターであり、その文学の「構造」に着目し、読者をプレイヤー視点に置くことによって、「選択」の結果、物語の終焉を迎えるという「構造」そのもので問いかけられるのではなかろうか、と。

……というのが、ざっくりとした僕の理解です。

東の指摘はもっともだな、と思いますが、それは『キャラクター小説の作り方』 の時点ではまだ東の考察に至るまでの材料が出そろっていないということ、そして大塚の生命倫理感・社会観に関する政治的な態度という部分をさっ引いた上での話です。

僕は前著『動物化するポストモダン』 のような社会文化構造全体までえぐる議論を期待していたのですが、本書では文学論に終始しているのがちょっと残念でした。

というのも、東が指摘しているような、ポストモダン化、データベース消費化のような印象は、どうも普段の社会生活であるとか、文化の在り方から見ても、何となく直感できるんです。ただ、それが現実社会にどのような影響をもたらし、この世の中で我々がどう生きていったらいいのかという問題をとらえるヒントとして僕は考えたいんですね。

成長する社会、あるいは社会的な成長というものにある程度のレールが敷かれていた時代はもう過ぎてしまっているわけで、我々はセイフティネットが希薄な時代を、どうサバイブしていくべきか、という問題に直面しています。大塚の議論では「文学かくあるべし」として、そこで倫理観・生命観を問い直そうとしたところが大きく評価できるわけです。ところがそれを転覆した東は、そこでのルール作りまで筋を通し切れていないように見えました(少なくとも本書の範囲では)。

まあ、あまり間口を広げすぎると、僕自身の考察も見失いそうになるのですが、僕の音楽観やコント観などから考えてみても、やっぱり物語が物語たるべきだと思うし、そこを描けるものが究極的には強いんじゃないかな……という気はします。直感だけどね。

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