2009年9月18日

大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』

大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』(講談社現代新書・2008年)を読了しました。

いきなりこれを読んでも何がなんだか全く分からないと思うので、大塚英志『キャラクター小説の作り方』 、東浩紀『動物化するポストモダン』 『ゲーム的リアリズムの誕生』 辺りを読んでおくと、両者の立ち位置がよく分かると思います。

はっきり言えば、この本で繰り広げられる4回の対談は、7年に渡る千日手……噛み合わないまま始まり、終わっていきます。しかし、新たな局面を予想させる展開で終わるのです。

 

えーと、どんな話かというのを、大阪漫才風に書いてみました。大体こういう感じかなぁと思います。

 

大塚「おたくがまったり暮らせるのも世の中うまく回ってこそや。だから選挙行きいや。東君もまったり支持してんだから選挙行け言うたらええねん」

東「大塚さん、そう言うてもやね、それは強制できへんもんちゃうか?」

大塚「キミ、なんやねん!? 知識人なら啓蒙せいや!?」

東「それを啓蒙するのは僕の役目ちゃう」

大塚「じゃあキミ、選挙行かへんのかい? 家族とか友達にも行けって言わへんのかい?」

東「そりゃ身の回りには言いますがな」

大塚「身の回りだけかいな? アンタ、ワテの著作持ち出して、大塚の言うんは古い、ここが矛盾しとる、って書いたやろ? そんくらい優秀な人は、書き物でも自分の立場はっきりせな。キミの議論、よく逆に受け取られてマズい方向に向かってまう危険があるんやで」

東「そんなこと言うたかて、ワテの書いたもん、どう受け取ろうがそんなん読者の勝手やさかいに」

(以下続く)

 

あとがきで東が、なぜ大塚が東に対していらだっているか分からないと書いています。彼は予想として、大塚の議論を勝手にアップデートしたからではないか?としていますが、それは半分当たりでしょう。

むしろ、大塚の議論に関して東がツッコミを入れた部分は、大塚が「政治的に」、ある意味では恣意的にそう立論した部分です。しかも東はそれを完膚なきまでにたたきのめしてしまいました。

だからこそ大塚はいらだっているのだと思います。東は明らかに自分の影響下にあるはずで、しかも自分よりもスマートであるにもかかわらず、意識的に政治的な言説を避けるばかりか、自らが物書きの心として残しておいた部分をも無形化してしまう。さらに、その言説が逆に保守言論に間違った形で引用されて補強するかのような役割を果たしてしまう。早い話が嫉妬なんでしょう。

僕は基本的には大塚さんに強いシンパシィを感じますが、同時に東さんが描く無力さもよく分かります。ロスジェネなんて言われていますが、確かにこの先30年どうやって生きていったらいいのかなんて自分でビジュアルが描けない。描けるわけがないのが、僕らの世代です。

しかし、一番最後の対談で、東が秋葉原の事件を受けて「政治的に」コミットし始めたことが記されています。これは面白いです。社会的にならざるを得なくなった東が、どのように社会とコミットしていくのかいかないのか……。

=

話題は全く飛ぶのですが、高橋健太郎さんの最近の発言(特にtwitter上)で、わざと斜に構えたようなスタンスのものを多く見かけます。あれ?こういう人だったっけ?という気が最初はしたのですが、上記の大塚さんのスタンスに似ているなぁとちょっと思いました。わざと反証を持ってきて、議論の脆弱性を指摘する、といったこともしているわけです。その意味では大人でないとできない立ち位置だなあと思います(しかしtwitterでの議論は見づらい……)。

しかし、議論慣れしていない人が見ると、単に挙げ足を取って噛み付いているように見えるのかもしれません。たぶんそうではないと僕は思いますが……。

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コメント[1]

補足するならば、大塚は大塚で諧謔的というか自虐的な立場を取っていて、「そうは言ってもオレ、まんが原作で食ってるようなもんだし、論壇はもう距離置いちゃったし。これからは東君頑張ってくれないと困るよ」という態度。東は東で「大塚さんの期待するような役割を僕は担ってないんですよ」みたいなそぶりを見せているわけです。なんだかなー。
しかし、こういう対談って黙っちゃうことができないので、その意味ではかなりしんどいだろうなー、と僕なんか思っちゃいます。

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