2010年8月27日

お休みをいただきました

実は週明け締切りという仕事を抱えていたのですが(だから先週は7時とか8時とかに家を出ていた)、会社が配慮してくださって、発売延期の手続きを進めてくれることになりました。

 

ということで、今週は水曜にその善後策を上司と相談するために出社したのを除き、お休みをいただくことにしました。

ここのところずっと働き詰めで、夏休みも9月に取る予定で動いてしましたので、昨日1日休んだだけでも負担は全く違います。ありがたい話です。

しかし、家族が亡くなると、仕事の関係でこれだけいろいろとご迷惑がかかり、いろいろなところが調整してくださるのだなと思うと、もうなんとも言えない気持ちになります。

 

そして、最後の最後まで連絡がつかなかった、母の友達にも昨日ようやく連絡できました。遅くなって申し訳ないとは思いながらも、ひっかかっていたことが解消できて、ちょっとだけほっとしました。

 

僕にはテキストを書くくらいのことしかできないので、ここに母・厚子のことを少し書いてみます。

母は、1944年11月27日生まれ。申年の射手座のA型でした。浜松の生家は、長兄が米屋を営んでいて、戦時中〜戦後でも食べ物には困らなかったとか。祖父は漆塗りの職人でした。きょうだいは兄・姉・姉・姉・本人・弟。

地元の高校を出た後、世間勉強を兼ねて、1年ほど川越の篤志家?の方のところに住み込みのような形でお世話になっていたそうです。最期に川越に勤めていたのも、何かの奇縁だと思います。

 

その後、某中堅ゼネコンの浜松支店に勤め、そこで工業高校建築家卒で現場を回っていた父・皓司と出会い、結婚することになります。結婚は確か24歳とかだから、1969年かな? 父はゼネコンを退職。某建築設計事務所に勤務することになります。そういえばその間、母がなにをしていたか知らないな……。

 

で、確か1972年ですが、浜松市上島町の市営球場近くに、クレッセントというジャズ喫茶を開業することになります。ここが僕の生家です。お店は1990年まで営業していました。

僕が物心ついたときには、うちの仕事はジャズ喫茶だけど、父親は建築設計の仕事(厳密に言えば主に施工図)をしている、という妙な家でした。逆に言えば、店は父の道楽でやっているようなものでしたが、実際の切り盛りは母がやっている始末。家の親父は朝なんて起きてこないですからね。大体3時とか4時までビデオで映画を見ていて、起きてくるのは10時過ぎ。店を開けるのは母の仕事でした。

 

1987年に、母の長兄がくも膜下出血で急逝しました。確か56歳だったそうです。火葬場で、母が泣き崩れて、父が抱えて支えていたのを覚えています。今でも火葬場に行くと、その光景を思い出します。

 

僕が中学3年のときに、経営的なことと、その他いろいろあって(JASRACが遡及取り立てすると脅しに来たりとか)、店を閉めました。高校入学と前後して、浜松市住吉に転居。父はある会社に勤めに、母は、2番目の姉の仕事の関係からマンション販売案内の仕事を紹介してもらい、モデルルームに勤めます。今思えば、ここに4年も勤めていたんだから、どんだけ売れ残っていたんだよ!って話ですね。

 

その後、似たような仕事を1つした後、地元の百貨店に入っていたブラウスメーカーのマネキンとして勤めていました。で、僕がM2のときに父が癌となり、他界。僕は父に「お前、母さんのこと頼むぞ」と言われていたのですが、母も仕事があるし、浜松に帰ったって仕事なんかないからお前は東京で仕事を探しなさい、ということで今の職場に拾っていただくことになります。

 

僕が働き始めて、3年。さて、そろそろ結婚でも視野に入れましょうかと思い始めたころに、母から電話があって「浜松で仕事無くなっちゃった。メーカーが東京に出てくればあるよって言うから、そっちに行ってもいい?」といい、同居することになりました。それからしばらくは浦和の伊勢丹とかで働いてしました

 

で、さすがにうちの相方のことを放っておくわけにはいかず、無理やり呼び出して、3人で同居をスタート。当初こそ世間並みにいろいろありましたが、母は本当に相方についてもよくしてくれました。人並みのことができるようにといろいろサポートしてくれたし、昨年・今年と立て続けに相方のご両親が亡くなったときにも支えてくれました。

 

一応、独立した大人が3人暮らしている世帯だったので、あまりお互いのことに干渉しないようになってはいたのですが、ご飯はほぼ毎日3人で食べていたし、時々一緒にでかけたりもしました。パット・メセニーのライブは今年の『オーケストリオン』にも3人で行ったけど、ブルーノートのカウントダウンに行けたのも、今思えば本当に良かったと思います。

 

で、母は、勤めていた店舗がこの8月で丸広百貨店川越店から撤退することになっていたので、息子としてもしばらくはゆっくりしてもらいたいな……と思っていた矢先の急逝でした。そういうタイミングのことだったんです。

 

母は、本当に働き者でした。古いと言えばそうですが、家事も全部こなすし、和裁・洋裁もやるし。趣味と言えば植木と縫い物、最近やってなかったけど草木染め。相方がうちに来るときに「母はこんな感じだから、お前、ある程度覚悟しとけよ」とはよく言ったものです。

学生時代、僕への仕送りも、大抵は母が工面してくれたものでした。最近も、家へ仕事を持ち帰っていました。「いい加減にしろ」と何度言おうと思ったか……。しかし僕自身もそういうことが少なくないので、言えませんでしたね。

 

かように働き詰めの母でした。まあ、血は争えないなとも思います。仕事が好きだったんです。だから本人が一番、仕事を「卒業」できずに終えてしまったことを悔やんでいることでしょう。

もともと痩せている母でしたが、マンションの仕事を始めたころからはみるみる痩せていってしまって、本当に苦労をかけたなとも思います。姉妹のうちで、一番祖母に似ていて、椅子の上に小さく丸まって寝ている姿なんてそっくりでした。

 

世間では「道楽者」と言われる父についていき、冗談交じりに「いつまでボランティアやってるの」とまで言われていた母ですが、本当に父のことを愛していたと思います。僕も父については、愛憎入り交じる部分が多々あるのですが(一人息子ですから当然です)、母に関して言えばとにかく頭が上がらない。この人には足を向けて寝られないという気持ちは常にありました。

 

ただ、思い返すと、母に関して場面場面で覚えていることは、母に怒られたり、あるいは母が感情的になっていたりする部分なんですよね。普段が優しくて明るく元気な人だっただけに、逆にそういうシーンが染み付いているのかなとも思います。何かがあると、露骨に不機嫌になったりして、それで父が「何だお前、その態度は」と怒ってケンカになったりとか。

 

そんなこんなで、21世紀松本家の3ピースのうち、重要な一角を失ってしまった痛手は、正直大きいです。普通の夫婦世帯は最初から2人なんでしょうが、うちは3人で回していましたから、夫婦2人になると、また生活リズムが変わってきています。なんだかまだ「しっくり」来ていないです。例えば、仕事も終わっちゃったし、我々夫婦について何か我慢ならないことがあって「もう浜松に帰る!」と癇癪を起こして帰っちゃったんじゃないか?とか、まだそんな気さえしてしまいます。

 

しかし、これで僕も相方も、親がいなくなってしまいました。二人とも兄弟もいないし、拠り所が無いもの同士、どうやって人生をこれから描いていったらいいのか……。特に、相方の実家をどうやって片付けていったらいいか、まだなにも方針が立っていない中でしたので、途方に暮れることしきりです。

と同時に、急に「家族」ということを意識してしまいます。我々2人で家族です。一人じゃなくてよかったと、本当に思います。

 

そんな中ですが、それでもやるべきことは山のようにあるわけで、日々頑張っていきたいと思います。

 

※母の葬儀の祭壇は、このように飾りました。ピンぼけですが、Webに鮮明なものを上げるのはいろいろな事情で避けておきたいので、これでご容赦ください。

http://twitpic.com/2hrx09

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.impactdisc.net/mt/mt-tb.cgi/282

コメントする