2009年9月 4日

東浩紀『動物化するポストモダン』

東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書・2001年)を読みました。

大きな物語(自由主義経済下における高度成長→バブル)が崩壊して虚像となった後に、その相似形縮小図であったはずの小さな物語のみが残り、それが消費の対象となった。その小さな物語を支えるバックボーンにはもはや「物語」は存在せず、データベースとしての情報過の中から引用されてきたエッセンスのみで幾つもの小さな物語が、オリジナル=コピーという関係の中間となる「シュミラークル」として生まれる。その小さな物語を消費=欲求しつつ、空洞化した大きな物語を欲望するというのが現代人=オタクの人間性である、という理解でいいのかな?

これを読んで頷けるところも多く、音楽の外側にしか音楽を感じられないのは、こうしたシミュラークルに嫌気がさしているからじゃないのかな?と思ったり。でも、そうして生まれてきた「音楽の外側」もすぐデータベースに取り込まれて、シミュラークルが次々生まれてくるわけです。

僕が音楽に期待するのは、やっぱりオリジナルのものなんだろうなぁ。たとえすべてのポップスがビートルズが生み出したデータベースからのシミュラークルであったとしても、その中でオリジナリティを担保する「何か」があるような気もするし……。

と、本書の東氏の指摘は現状分析であって、より進めた議論をもっと読みたいな、というのが感想でした。

 

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.impactdisc.net/mt/mt-tb.cgi/172

コメント[2]

>より進めた議論
本書は2001年だからまだ分析だけだけど、あれから議論は進んでいますね。たぶん。
こないだトークショーにいきましたけど、ライブで聴くとよりおもしろい人です。知的な脳内麻薬が出ます。

>本書は2001年だからまだ分析だけだけど
うん、まあ、そういう含みをもたせた書き方をしました。

ただ、佐々木敦さんの『ニッポンの思想』によると、どうもなぁ……「監視社会は我々が(ある程度の安全を)望んだ上で成り立っている」みたいなことを東氏は言っているらしいので、その辺り僕の考え方と折り合わないんですよ。もちろん現状の認識としてはそれでいいんだろうけど、本当にそれでいいと思っているのか?というところに疑問が残るんです。

コメントする