2010年1月17日

勝間和代×香山リカ『勝間さん、努力で幸せになれますか』

うまく感想がまとめられないので、以下twitterに書いたことをコピペしました。

勝間×香山本についていろいろ言いたいことがあるんだけど、うまく考えがまとまらない。印象としては「空中戦」で、本当に語らなくてはいけないことをふたりとも避けているような気がする。社会の問題を二人がそれぞれ個人的な問題に引き寄せすぎて、マクロ的な視点に欠ける。

そもそもは香山さんが、カッコつきの<勝間和代>を目指すことで、努力疲れする必要は無いと書いた。それに勝間さんが反論。私は無駄な努力を勧めてはいないし、その危険性は指摘している。効率的な方法があるはずだと。しかし、僕には彼女の指摘は「優等生の勉強法」に聞こえてならない。

勝間さんが言うインディペンデントな生き方ができるのであれば、選択の幅が広がる。これは間違いない。しかし「効率的な努力の方法」なんてそんな簡単な話ではない。香山さんはその努力すら自分はしたくない。そんな自分でもそこそこ幸せな生活ができるような世の中が理想だという。

香山さんは自分に話題を引き寄せておきながら、実は背景にある「努力疲れ」を普遍的な問題として語りたい(部分もある)。その引き合いの出し方が、議論を縮小してしまっているような気がする。

一方で勝間さんも、社会貢献としてChabo!をやっている話は頻繁にしているけれど、じゃあ、例えば青砥恭『ドキュメント高校中退』で語られているような貧困階層スパイラル化する世の中に対してどのような施策を講じていくべきかといった議論は出てきていない(少なくとも僕の見ている範囲では)。

彼らに対して、勝間さんの「努力しよう」「目標を持とう」という言葉がどうすれば響くのかということをつい考えてしまう。それを持ちえない限りは、勝間努力論はお勉強がよく出来る人のライフハック論でしかないし、新自由主義的な勝敗価値観の先端で競争を煽るものだと僕も思う。

しかし、そうやってライフハックすること自体は悪いことではない。自己防衛をしていかないと、厳しい時代は越えられない。反面、香山さんはそれを新自由主義的価値観(勝ち負け)の後押しだとも言うが、その後議論を個人的な話題に引き寄せすぎたのが個人的には残念。

あと、ちょっと前に週刊誌で叩かれた件について「それは折り込み済みです」的な発言をやんわりと入れているのはいかがかと思った。

そういう意味で、僕が迫って欲しい本質的な問題を回避した、個人対個人の話に矮小化されてしまっている気がして、勝間・香山本は“空中戦”だと思った。お互いのポジションをフィックスするためのプロセス、みたいな感じ。

青砥恭『ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所』(ちくま書房)は、大学時代に少年犯罪やいじめ、教育の問題を扱っていた僕でさえ、今の現状はここまで来てるのか…と思わされた。社会全体の底上げを考えないといけないと真剣に思う。 

だから、そういう底辺層(という言い方はよくないかもしれないけれど)にまで通底できるようなことを提言できるなら、勝間さんもすごいなぁと思うんだろうけど、今のところはどうも「お勉強できる人のロジック」でしかないような気がする。香山さんも、そこまで意識的だったらよかったけど違うしね

だからと言って、勝間・香山の両氏に批判的だということではなく、僕が期待しているような議論にはなっていなかった、というだけのことです。

しかし、ああいう明らかに対立図式の対談ってしんどいと思うよ。ちょっとでも譲ったら負けだもん。それは大塚×東を読んだときにも思った。

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