2015年3月25日

松本麗華『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』

麻原彰晃の三女、松本麗華さんの自伝が出たということでKindleで購入。講談社はこういうところもちゃんとしていますね。

 

物語は彼女が物心ついたころから、教団の隆盛期、地下鉄サリン事件を経て上九一色村への強制捜査、破防法弁明、団体規制法〜と我々の知るところですが、その裏で彼女の周囲で何があり、彼女自身が何を感じたのかということがつぶさに語られていきます。ちなみに地下鉄サリン事件当時、彼女は11歳。20年経った今では31歳です。

本書を読んでいて一番つらかったのは、周囲の大人のほとんど全員が全く責任を取らず、そして彼女を含めた麻原の子どもたちがそれに巻き込まれ、彼女たち自身はそうした大人たちの思惑に振り回され、利用されていたという事実でした。

母親は教団に熱心で家庭を顧みない夫に愛想を尽かし、信徒は彼女たちへ羨望と妬みの眼差しを向け、マスコミは追い回し、捜査機関は目の敵にし、学校をはじめとする社会はは受け入れを拒む。そんな八方ふさがりの状態で、彼女を含む子どもたちは精神を病んでいくこともしばしば。大人のズルさに腹が立ってきます。

そんな中、彼女の精神的支えは、ほかでもない父親でした。まだ思春期に差し掛かる前の彼女にとって、自らを受容してくれる父親は彼女の居場所でありました。ただこの父親にも大きな問題があったこと……彼が事件の主犯なのかどうかは本書では(そして彼女の人生においては今後も)最後まで保留されることではありますが、この組織が犯罪へ向かうことを少なくとも看過してしまったことには、大きな責任があったことは彼女も認めるところではありましょう。

そんな親でも、逮捕され、拘禁され、まさに自分の居場所たる父が居なくなった後の教団は、彼女にとって安心できる場ではなかったわけです。

あくまで当事者の片方から見ての話ですが、自分の居場所ではなくなった教団とは離れた彼女の「名前」は、父親の後継者を自認する者たちに利用されました。いや、利用され続けています。大人のズルさにまた腹が立ちます。

そんな彼女も、生活を支えてくれた元信徒、受け入れてくれた大検予備校、大学、弁護士によって、自分自身の力で生きていこうとする力が徐々に芽生えてきました。そんな矢先、ようやく面会が叶った父親の、明らかに精神に異常を来した行動。彼女にとって、父親が精神的支柱であることは、信徒が教祖を崇めることとは意味が違うのです。あんな教祖でも、それが個人としての尊厳、人間の尊厳を失いつつある身であっても、死刑囚であっても、彼女にとっては父親なのです。その親子の紐帯は分かるようでいて、僕には分からないのでしょう。

オウムを巡る諸問題には、さまざまな法的論点があり、学生時代にはそれこそ散々議論してきました。しかし、本書を巡って、僕はそこを語りません。一歩離れて、一人の人間がすべてを剥奪され、そこから再生を目指す物語として読みました。

娘である彼女に限らず、教団は信徒にとって自分たちの居場所でありました。大小さまざまな問題があっても、彼らの唯一の居場所であったことは間違いないですし、それは他の社会と、実はあまり相違はないと僕は思います。

犯罪は、法の下で処罰されるべきです。

彼女の父親は、確かに、日本国憲法下で最も重大な刑事事件の主犯とされました。だからといって、それは当時11歳だった彼女とは全く関係のないことです。

ここをスタートとして、彼女が今後どんな人生を歩んでいくのか……興味はありますが、知る必要はありません。せめて人並みに、普通の生活を手に入れてくれることを望みます。

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