2018年1月26日

赤川新一さんのこと

昨夜帰宅して、Twitterを見ていたら、レコーディング・エンジニアの赤川新一さんが癌闘病の末、24日に亡くなられたことを知った。病気のことは、昨年末おぼろげながら伝わってきていて、赤川さんが闘病しながら音楽業界有志で支援基金を募っていたので、一口乗った。なので、少しは楽観視していたんだけど、あまりにも早過ぎる。

 

悶々として暮らしていた大学院生時代、僕にとっての楽しみはネットと音楽だった。

ムーンライダーズ・ファンで宅録家の僕は、赤川新一さんが立ち上げていた掲示板にちょくちょく書き込んでいた。そのうち、父親が癌になり、亡くなって、仕事を探さなきゃいけなくなったときに、赤川さんが今の職場で募集があることを教えてくれて、ボスにメールをした。それが今の仕事を始めるきっかけになった。

今となっては作る側だけど、当時読者だった僕は、バックナンバーでムーンライダーズ『最後の晩餐』の特集が組まれた号を手にしていた。各曲ごとのトラック・シートが転記されていて、「こういう記事を作りたい」と面接で言った覚えがある。その記事には、若かりし紅顔の美青年だった赤川さんが凛々しく載っていた。

入社して最初の大きな取材で、ボスと、当時赤川さんの連載を担当していた先輩と一緒に、赤川さんのミックスに張り付いた。深夜2時ころに目黒からタクシーで帰って、ああ、業界の仕事ってこんな感じなんだななどと思った。もちろん、そんなのは雰囲気だけの話だけど、仕事をしている人になったんだなぁとちょっと思った(思い上がりも甚だしい)。

その後、ときどきいろいろな仕事をお願いしつつ、赤川さんの導きで沖縄のスタジオ取材に行ったりもした。そして、あるときに再開した連載の担当になった。例の、千葉にスタジオを作るというプロジェクト。八街の、周りに何にもない土地に一緒に行ったり、建築家の方に模型や図面を見せていただいたり、テスト・レコーディングに行ったり。最後の完成記事の取材は、海外出張とバッティングしてなぜか行けなかった。そうやって連載も終わった。

業界の人はみんな知っている話だけど、そのスタジオがいろいろあって売りに出されたり、赤川さんがそのとき居た会社から出たりと、ちょっと後味の悪い感じになってしまって以降は、ピンポイントで何かお願いするとき以外はあまり連絡を取らなくなっていた。赤川さんの仕事の方向性と、僕の求めている方向性の違いみたいなものもあったと思う。ごくたまに何かの連絡とかお願いをして...みたいな感じだった。スタジオが、現オーナーの元で再開して、赤川さんがコミットしていると知ったときはちょっとうれしかった。

赤川さんの良いところは、以前の自分に固執しないところで、それを反対から見ると前言をひっくり返すというところもあった。職人肌だけど、職人としてやっている最中のところもバンバン出しちゃっていたんだと思う。人に対する接し方も壁を作らない人だから、来るもの拒まず、去るもの追わず、だったんじゃないかなとも感じる。でもそのおかげで、僕は何となく自分の道が開けたとずっと思っている。もちろん仕事をしていく上ではいろいろな方に支えられてきているけど、間違いなく足を向けて寝られない人の一人だった。それ以上に、僕の好きな作品を数多く残してくれた方だった。

「だった」と過去形で書くのはたまらなく悲しいけれど、音楽の仕事をしてきた人は作品が残る。それは幸せなことだと思う。

僕には、赤川さんみたいな生き方はしようと思ってもできないけれど、今年の年頭になんとなく「人に優しくしよう」とふと思って、それは守ってみたいなと思ってる。

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